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台風災害や地震による被害が発生し、それらがテレビを通しもろに放映されるから、それらの惨状が直接ひびいてきて心の休まるときがない。とくに子どもや老人、ときにはペットまで悲しそうな表情を見せて映像の中に現れるとついつい涙腺が刺激されて、目のやり場に困ってしまう。そのテーブルの向こうにはでんと家人が坐っていたり、孫がゲームに夢中になっていたりしても上眼づかいにちらりと見られたりすると座もちができずトイレに入ったりする始末▼涙にもいろいろあって、私の場合など泪と書いた方が的を得ているような涙腺のゆるみぐあいだが、涙があふれたあとは心が洗われたような感じになることも確かだ。対象となるものにかわいそうという純粋な心情がわくからであろう。喜怒哀楽で涙が流れるように思いがちだが、男たるもの嬉しくて泣いたりはしないし、怒っても楽しくっても泣いたりはしない。自分が悲しくても涙は流れない。もの哀れを感じたとき滂沱と涙が流れるのだ。あーあ、かわいそうだな、つらいだろうなと想像して胸がしめつけられるから涙腺がゆるむのである。「おじいちゃん、何で涙が流れてるの」孫娘のひと言がつらく胸にささる。「鬼の目にも涙」然と見ている家人の表情が許せない▼いま、老夫婦間につめたい隙間風が吹いている家庭が多くなったときく。大方は、婆さんが永年つれそった爺さんに愛想をつかして冷酷な目線で相手をみつめ、日常的な世話まで放棄して気の合った同好会の仲間たちと、フライパンに煎られたゴマのように飛び跳ねてあったのが温泉だ。こっちの劇場だと家に腰をおちつけていたためしがない連中が多くなったようだ。このところわが家でもその傾向が現れているようにも思える。先日、次男坊夫婦が四万温泉へ招待すると申し出があったが、旅行嫌いの私は即断った。まして婆さんと一緒など沽券にかかわる思いだし、窮屈このうえない感じだ。次男坊夫婦の厚意はありがたいが、土・日曜日など広い競馬場で走り回っているほうが、私の性に合っているし、家で寝っ転がって本でも読んでいたほうが至福なのだ。そこで、家人は気の合った同志で日帰り旅行だ、演舞場だと出かけては喜々としている。災害に涙しているわが輩を眺めては非情な目を向ける家人は、いつの日か別離の悲哀で涙を流させようと思っているのか、恐ろしい。そのときの涙はどんな涙なのか、あるいは涙も出ないか、想像の域を出るものではない▼このようにわが身に関する涙など、ある程度の理性が働くものだから、涙することなど滅多にないし慟哭することもあまりない。ただ、第三者的なものの哀れを目のあたりにすると、とめどもなく涙が流れるのである。自分のことならばじっと我慢して涙もなく耐えることはできるが、それが他人ごととなるとその心情を思い耐え難くなるのである。爺さんは山に芝刈りに婆さんは川に洗濯には昔の噺で、いまは爺さんが家に蟄居し婆さんが遊び回っているのが普通のようで、それが平和な図式ともいえよう。連れ合いとの永久の別れが来ても涙することなく淡々と事が運べる、そんな心境になったのは、確かな老いの現象であろうか。
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