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川に取り憑かれている。今月号で川の特集をやった関係もあって私も片棒を担ぎ府中のはずれの多摩川を訪ねた影響かもしれない。川は浅く遠目には澄んで見えるが、その川の印象は雄大なイメージとひどくかけ離れていて草叢に囲まれた小川のようであった。山肌を縫うように流れてくる多摩川上流の涼感はなく、広い川幅の中を一本の流れが蛇行していて、強い太陽の中で枯れかかっている心細さである。集中豪雨で暴れ川となるのはいただけない、もう少し大河とまではいわないが、多摩川らしく滔々と流れていて欲しくものだ。なにか人工的なものが施されたのか、あるいは自然の変化で水流が減ってしまったのか昔はもっと豪快に流れていたように思う。わがまちを流れる石神井川が護岸されてコンクリートで囲まれ川底に雑草が生えている風景を見て殺伐たる思いをするのと一脈通じていて寂しい▼今年の五月末日、高校のクラス会が東京で開かれた。卒業以来50年ぶりに会う顔もあって懐かしさもほどほどに化石と遭遇の印象はお互いさまで過ぎ去った年月の重さが横たわっていた。全国から集まった同学年のクラスの面々、しゃべる言葉もその土地々々の生活がにじみ出ていて時の移ろいの長さが感じられたが、その中にもどこか1本変わらない昔ながらの郷土のにおいが感じられるのであった。それは何だろうか、ふる里に今でも残る純朴のせいかあるいは青春時代に共に抱いた純情可憐さかと老いた男女同級の表情を見ながら思い悩んだものだった▼翌日、バスを貸し切って東京見物。今流行の六本木ヒルズ、お台場、臨海公園と観光バスで巡るのであるが、車内にはあまり感嘆の声も上がらない。六本木ヒルズのごときは、その人工的な造りと建物の巨大さに拒絶感を起こして見物どころか日陰のベンチから動こうともしない面々なのであった。高速道路はビルとビルの間を覆いつくして空気はよどみ、鉢植えのような緑の植木が道端にちょこなんと枯れかかっている。「こんなところは住むところじゃないね」生まれて此の方郷里を離れず写真館を営むクラスメイトがぽつりと漏らした。その通り、そのひと言が昨夜からのもやもやしていた思考をいっぺんに解決してくれたのであった。年寄りにはこういうけばけばした都会は不要なのである▼郷土の月山(がっさん)は夏スキーで有名である。真夏といえどもその月山からの雪解け水が渓谷をつたわり麓に流れ、大きな河川となって平野地帯をうるおしてくれる。河川から分かれた小川は水滴を落とすことなく澄み切っていて豊かに人々の暮らしに滲み込んでいた。あるいは今もそうかもしれない。住まいの軒先を満々と流れる雪解け水があの高校の時からクラス全員の中に流れていて、いつも弾けるように元気で清らかであったのだ。クラス全員が月山の雪解け水の恩恵を受けていたのである。高校の両側もその水は川となって
流れていた。50年以上たってもどこか変わらず共通する潤いの表情、それはやっぱり郷里を離れるまでお互いのからだの芯まで染みこんでいたあの清流があったからなのである。川に惹かれるナゾが一つ解けた。
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