身のまわりから余計な物を取り除きたくなりつつある。物といっても飾り物とか着る物とかの物ではなく、ちょっと内面的なものといったほうがいい。もっとも腕時計とか指輪とかはうっとうしくて金輪際身につけようとは思わないし興味もないが、ときには日常必要な眼鏡さえじゃまになって置き忘れたりする。物にこだわらないのは生来のもので、読書は大好きなのに蔵書というものがない。読み終えた本はそのまま、昔だったら古本屋さんへ、いまは資源ゴミとなって回収される運命にある。そんなことで、あとであの印象に残った文言のフレーズはどんなだっけと思い出そうとしても、あとの祭り。その本の題名さえ思い出せない。ただ、その文のエキスだけは残っているから、それでいいのかもしれない。その文言によって心が浄化されたのであり、うるうるとなったのであれば固体として残しておくことはない▼むかし都内から現在地に引っ越すとき、行李(こうり)いっぱいあった日記やへたな雑文の原稿をすべて燃やしてきた。いま思えば多少もったいなくもないが、それほど執着もない。身のまわりをきれいにしておくのは居心地がいいからだ▼若いころ、画家を志していた知人が描いた絵を友人に贈って、その何枚かの絵がいまでも存在している。「あの絵を取り返し焼き捨てないと死ぬに死ねない」と嘆いているが、その心境は痛いほどわかる。絵の巧拙もさることながら、その時分の己れの心象がどうにも嫌なのである。その足跡である自分の絵がこの世にあることが許せないのだ。過去の青春のシンボルとしてのその絵を嘆美して謳歌する、そういう人が多い中、その知人はそれを否定し続けるのである。人生に潔癖すぎるのだ。よくわかる▼このように身辺雑事を省略していくと、過去も現在さえも、また名誉や地位も一つの砂上の楼閣に見えてくるから不思議である。虚構に思えてくるのだ。名誉も地位も得られそうにないから大見得を切っているのかもしれないが、そういう言い訳もムダなものに思えてくる。金に対する執着もそれほど多くはない。金は有り難くいっぱいあるに越したことはないが、それを貯えようとする欲望はない。持つ金は多いほど裕福な気持ちをもたらすけれど、それは消費するための金となってしまう。有り金はほどなく無となって霧散してしまっている。持っていると無くなるまで強力な消費欲を刺戟してしまい飲む打つの領域に入り浸る。金があると不安になる一面も兼ね備えているから処置なしといえる。有り金は家人に渡しておくことが無難となる▼このように消去法で身のまわりを整理していくと、所詮、消費も身のまわりから余計なものを取り除くことだと気がつく。そして喜怒哀楽までそぎ落としていくと、残るのは純粋な感性のみとなる。これは見たところ真っ白な情愛のかたまりのようであって、物を想う慈愛の心に行きつくようである。物心両面を透明にしていくと対象物がみな慈しみの対象と思えるようになる。ただ、自分の肉体まで取り除きたくなったら仏の世界への一里塚であろうから、いましばらくはそれだけは止めておく。


共同企画 後藤喜好