机の中に古い週間新潮が放りこまれている。山口瞳の絶筆となったコラム男性自身が載っているからだ。そこには山形の上山(かみのやま)競馬場への思い入れの深さが書かれていて、それも記念になると思い保管していたつもりだった。ところが8年ぶりに取り出して読んでみたが、上山競馬のことは一行も書かれておらず、死に直面した山口瞳の心の乱れのようなものが書かれているだけだった。多分絶筆は間違いないようだが、私の勘違いであった。それほど山口瞳と上山競馬は密接に結びつくのは、あちこちにそのことを書いているからであろう。▼その上山競馬場が年末を待たずに廃止になってしまった。累積する赤字に上山市が耐えられなくなったからだ。温泉町の競馬場として、どこか牧歌的な取り上げられ方をされ、山口瞳の精神を嵐山光三郎も引きつぎ上山競馬を礼讃しているが、土着の人間にはそう嘆美的な存在でもないようだ。たまに、東京から大名旅行のついでに訪れるから美しく楽しいのであって、わざわざ県内から車や汽車で行くほどの所ではない。どこか物悲しいのだ▼むかし、生家の筋向かいに馬が好きな農家があって、そこの主人がよく上山競馬場まで通っていた。「また競馬か」と隣人に言われながらも熱心に通っていたものだ。当時、昭和の20年代後半であるから車は普及しておらず、バスを乗り継ぎ最寄りの駅から上山駅まで通ったのだろうが、優に2時間はかかったであろう。幼心にその頃は競馬とは馬を見に行くものだとばかり思っていた。いわゆる馬喰のたぐいだろうと信じていたのだ▼後年、競馬のなんたるかを知ってから帰郷の折、競馬好きの義兄に連れられて上山競馬場を訪れたことがある。車で連れて行かれたが、車で揺れること2時間はかかった。上山温泉街を抜けて、蔵王連峰が眺められる高台にその競馬場はあった。周りの景色は明媚ではあったが、金を賭けて楽しむ雰囲気ではない。入場者を見れば農家の親父風の客ばかりであるし、喋る言葉も方言まる出しで、山形出身の者にとってはみんなが身内みたいなもので面白くもなんともなく、どこかおぞましくも感じたものである。人情味ゆたかで牧歌的などという表現はどこかよそから来た一見の客の感想というもので、こんなところで競馬なんかやっていないで働くべきではないかと変に道徳的な心の葛藤を経験したものだった。帰途の車中もあまりいい印象は持っていない。真面目で純朴な山形県人には競馬場は似合わないのである。廃止されてほっとしている山形県人は多いはずだ▼所詮、競馬は博打である。同じ県民性を持った者同志が金を張ったり取ったりしても味気ないだけだ。どうせ金を巻き上げるなら見ず知らずの他人から取った方が気分が良い。日本人同志ではなく外国の賭場場で取り合った方が気が楽だ。せいぜい国内なら何万人と入る広大な競馬場で静かに楽しんだ方が気分がよい。牧歌的ではなくても、お互いに見ず知らずの場内において存分に楽しんでおればいいのである。上山競馬場廃止を残念がる声に反抗して、一筆となった次第である。


共同企画 後藤喜好


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