小学校の授業参観日、先生が線を一本横に引いて「さて、これは何に見えますか」と生徒の想像力にうったえたところ、教室中が」の大合唱となった。ここで男の子が名指しされたわけでもないのに壇上まで進み、おもむろに「こぶら」と書いた。先生も参加者も一瞬あ然としてその行動を見守っていたが、男の子が書き終わったところで教室にほっとした安堵感が流れ、先生も思わず「はいコブラもいますね」と引き取った。へびも猛毒をもったコブラもへびの一種であり、わざわざコブラを強調しなくてもいいだろうに教室中がへびと言うからコブラと天の邪鬼を発揮したのか、これがわが孫であるからちょっと恥ずかしいし理解に苦しむ。その時、この子はごとうという苗字であるから最初に「ご」という字を書いて、間違いに気付いたのか悠然とその濁点を消し、そのあと「ぶら」とつないだのだそうだ。一時はどうなるかと母親はパニクったそうだ▼事象や物象を見て想像をたくましく膨らますことは人間に与えられた能力であって、それは否定できない。石という字を持ち出して、そこから空想を拡げてみよといわれれば人は限りなく石の持つ特性を敷衍(ふえん)して石を表現していく。石の持つ本来の硬さ、冷たさ、無表情さに人間それぞれが持つ情を注入して、石への温かい思いを綴りあわせていく。それが人間のすばらしい個性であり感性である。そのすばらしい個性や感性は、その人間が長い間培ってきた知識や教養、それにその人の経験によって磨かれたものであって一朝一夕で備わるものではない。人は生まれた時は何の濁りも偏見もなく純粋そのものである。透明な個体がそこに存在するだけで、自意識も感情も包含されてはいない。純粋無垢の状態である。それがやがて成長し、その成育の過程で経験するもろもろの刺戟によって人は形成され、その人独特の人格が形成されていく。感性が磨き澄まされていく。だから人間は過去の生き方が大事であり、絶えず自らを磨くことが必要となる。いつも自分を甘やかす人間は怠惰が常識となって、そういう人格が築かれていく。貧しい中にも切磋琢磨し資質の向上に努める人は、輝くばかりの人格を形成するようになる▼話を元に戻すが、未だ人格形成前の幼児性の抜け切らない小学生の時に、一本の横線から「へび」を連想しクラス全員がそう結論づけしたならば、それをわざわざ「こぶら」に改めなくてもよさそうなものだと心配するわけである。その行動を個性的と見るか天の邪鬼と見るか教育する担当者も大変なことだなと同情さえするのである▼この頃、小学生の補習教育だとか英才教育だとかの勧誘電話がよくかかってくる。みんなを天才・秀才に育てあげるという親切かつ営利見え見えの電話である。そんな時、わが家には独特の個性をもった子供がいて天才かもしれないので、と鄭重におことわりすることにしている。ちょっと心配なとまどいを感じながら複雑な思いを抱いてである。それにしも次男坊であるわが身を省みつつ、次男坊には変に個性的な人間が生まれてくるものだとつくづく思うこの頃である。血統だといわれればそれまでであるが。


共同企画 後藤喜好