怒髪天を突く、というような激しい怒りがあまり起きなくなった。怒り方を抑えることができるようになったせいもあるが、それでも余震のような小さな怒りは以前にも増して起きていることは確かだ。大仰にいうなら強い憤怒の興奮状態がそう続かなくなったといった方がいい。若いときのように相手を蹴とばしても足りないぐらいの迫力がなくなってしまったのだ。途中であほらしくなって止めてしまうようになった。喜怒哀楽の波状が少なくなった。喜怒哀楽の激しさは無教養のあらわれといわれるが、人格がそなわったわけではなく感情の動きが小さくなっただけである。年齢的な功徳を神様が与えてくれたもので、神の摂理というやつである▼小さな怒りの余震といえば日常の些細なことが多く、朝の目覚めどきからはじまる。年を取れば朝の目覚めは早く、あわい夜明けとともに目はパチリと開く。今日一日あれをしようこれをやろうと予定は駆け巡り、ちょっと気乗りしない予定なども頭をよぎったりする。しかし、それをやり遂げたあとの満足感は晩酌の旨味をそそるものとなるので一つの張り合いにもなる。そんなとき、同じように早起き症候群となっている連れの者が、がさごそと動き出し、テレビをつけたり、音響を加減することなく聴き入ったりするから「うるさい」と一声飛んで波紋が広がる。朝風呂で身を清め朝食の膳に座れば、みそ汁はゆうべの残りで浅漬けのお新香もなく、かろうじて目玉焼き一つぐらい。「ふん」こんなもので飯が食えるかと内心はおだやかではない。口に出せば不愉快になるだけだから苦虫をつぶしたような朝食となる▼一事が万事この調子であるから、老夫婦の日本的なわびさびの世界はとうに望むべくもなく会話も一言三言で用事以外は余って押し殺しての対面とはなっている。大方の老夫婦はみんなこんな具合で、引退したら仲良く共白髪までと心に誓っていたものの、朝から向き合っているとつい些細なことで言い争いになると爺さん連中は嘆いている▼さもありなん、いま七十歳前後の人たちは戦争の体験と戦後の混乱を必至に生きてきて、食うや食わずに働いてきた人間ばかりなのだ。地方の次男、三男坊は親の財産を分けてもらうこともなく都会の未知の世界に放り出され一から出発、子育てが終わり家のローンを償還したところで老後を迎えているのが現実。八百屋、魚屋、乾物屋と小僧働きから店を構えてやれやれこれから豊かな人生というときに、スーパーという怪物に食い荒らされて一網打尽閉店の憂き目にさらされたりした人も含む年代なのである▼こんなに耐え忍んで生きてきても、決して豊かな老後があるわけでなく、借金を返しつづけていて年金も満足に掛けたわけではないから未だ働きつづけなくてはならない人もいる。どうにもこうにもままならぬ人生、堪え忍ぶにも限界があるというものだ。あまりに唯々諾々と憤怒を抑えて生きていると、死神の誘いにも応じてしまう羽目となる。ここでもう一度老人パワーで奮(憤)怒する必要があるというものだが、どうか。


共同企画 後藤喜好