人はいろんなきずなに縛られて生きている。人生はきずなそのものとも言える。思春期のころはそのきずなから抜け出したくて断ち切りたくて反抗し思い悩むが、人生の終えんを迎えるころにはその人間のきずなは有難くすがろうとさえするが、目に見えない力によって奪いとられ、孤独な旅へと旅立つこととなる。それが人間の往生である▼物心がつきはじめるころ親とのきずなを断ち切りたくて、父親にいちいち反抗したり、母親につらく当たったりでしがらみから抜け出したくて思い悩む。青春時代だ。ただ我が儘だけなのだが、これがやがては独立心に結びつく。大学に入り友達やサークルの中でもまれ、複雑な人間関係に晒(さら)されながら硬軟両様の処世術を身につけながら成長していく。そして社会に放り出される。ここまでは親子の関係、学生同志の結びつきなどまだきずなと呼べる情緒的なものではあるが、一歩社会に足を踏み出してしまえば全ての関係はしがらみの様相となる。アパートの隣人関係、通勤途中の電車の中、会社内外での人との接触、これらは心の休まることのない吹き曝(さら)しの世界である。この中できずなと呼べる人間関係が結び得たら、それは本当の友情というものであろう。会社の上下関係においては親分子分の領域となる▼やがて家庭を持ち子供が生れ一家族が構成されると新たなきずなが発生してくる。これまで経験したことのない感動的なきずなの誕生である。親から授けられたきずなではなく、自分からつくったきずなである。責任をともなったきずなである。ここからの三十年余りはまさに人生の試練の日々であって修羅場がつづく。物欲も愛欲もともに盛んで人生の大方のエネルギーをこの期間の中で使い果たすといってよいであろう。途中で挫折するか突っ走るかの難関もあるが大抵はそれに気づくこともなく過してしまう。気力も体力も横溢しているときともいえよう▼やがて老いという衰退と静謐のときを迎え、激しく揺れ動いた人生の歯車から解放されるときがやってくる。しかし従容としてその途につくかというと一筋縄で括(くく)れないのもこれまた人生で、老害なる有難くないセンテンスをいただく場合もある。ここで必要なのはそこまで築いてきた家族とのきずなというものであろう。青春の頃は持て余し気味だった家族のきずなが否応もなくつづいていることを知り、その愛情の対象が小さな存在である孫たちに向っていく。人間の勝手な恣意(しい)をそこに見る思いであるが、孫たちの存在は純粋であり、抜けるように透明だけに可愛い情愛が自然と向いていく。可能な限りの寵愛をかた向けたくなる。甘やかしの幣害さえ生れかねないが裏を返せば、自らの生の終えんを迎える間際に自分のきずなに恋々と執着しているのかもしれない。このように人は同じことを繰り返していくことになる。


共同企画 後藤喜好