|
読みたい本がない。本が読みたくて本屋に行って本を探しているのだが、読みたい本が見付からない。読みたい本はどんなものかと聞かれても答えようもないが、なにかドカーンとぶっ倒されそうな本を探していることだけは確かだ。この撞着した心理状態を経験している人は意外と多いのではないかと思う。本屋の平台にはカラフルな雑誌が数十冊は並んでいて一見晩秋の落葉のようでもあるが、それほど美しいものでもなく、けばけばしい印象だけが残ったりする。平台の新刊書も色あざやかになって刺激的な文言が帯封で踊っているが、それほど魅力的に引き付けるものもなく、ついつい週刊誌一冊でごまかしてしまうときもある。見れば初老のご婦人が手ぶらで本屋を後にして行ったが、あるいは同じ空しさを覚えていたのかも。恋とか死とか病気とか特別な関心でもあれば素直に本も買うのだろうが▼正月は読書でもと一念発起して本を買ったものの、積んどくだけでテレビを見ているお方もおられよう。読みたい心に即フィットする本などそうあるものではない。めぐり合えたら最高の幸せ、教典みたいなものとなろう。人の心など移り易く、むかし夢中で読んだ小説なども、いまは見向きもしないことなどよくあることだ。何百冊と読んだかもしれない本の数々、いままた読み返したいとも思わないのが人の常、なまじ失望したりするから読まない方がいい。作家なる御仁とて自分の書いた物など読まないのではないか、読めば嘔吐をともなうか、書き直したい衝動に走るのがオチ。書き物は書いた人の排泄物にほかならないともいえるからだ▼昭和のはじめに生れ、人生の集大成をいつ完結してもおかしくない年齢層に達すると、過ごしてきた人生そのものが立派な物語であり、そこで培われてきた哲学が生や死に対しても立派な教典となっているのがわかる。本を読んで自分の人生にまさる人生などそう見付かるものではない。そう自負していいのではないか。天井桟敷にたむろしていると、自分を勝手に粗末にしている人や、その人となり以上に自分を誇示している人などよく見かけるが、脚下照顧してみれば自ら進む人の道は見えてくる。朝に夕べに自分の物語を大事にして、それが貧しくとも誇りを高く持って生きていきたいもの▼そこでお薦めするのがたとえ三行でも自分の日記を書くことである。物を書くとは腹膨らんだものを排泄するのによく似ていて、自分の思うことを文字にすると爽快となる。物言わぬは腹膨るるとはいうけれど、物言えば相手を傷つけたりもする、それより三行でも日記に意思表示することによって新たな毎日を送ることができる。それにしても切磋琢磨できるような本はないものか、と本を求めて性懲りもなく本屋めぐりをくり返すことは目に見えている。そんな愚かな撞着を今年もつづけるのであろう。
|