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ようやく秋のけはい。高齢者にはこんな素直な季節はほかにないとありがたく思える。春のように躍動する華やかさはちょっと面映ゆいし、夏のように強烈な個性のかがやきはまぶしすぎてご免こうむるし、冬のように荒々しい感覚は骨身にしみるという具合で、あくまで静かでひっそりとした秋のたたずまいはお年寄り向きである。そこで散人閑居して風情を愛でるというわけで庭木をいじるか、庭を見て点茶を楽しむか。あるいは秋だ野川だハイキングだと探索に出かけるか、人さまざまであるが、人それぞれに秋はおとずれる▼とここまで書いたらペンが少しも先に進まなくなった。秋は素晴らしいと書きたいのだけれど、そんなことはあたりまえで、いまさら言われなくともわかっていると自問自答のくりかえし。わずかばかりの感性と貧弱なボキャブラリーでの秋の表現はむずかしい。おお秋よ、秋風よ、とだれかの詩の書き出しのような文字が頭の中を反復している。時間がたってしだいにこの秋ほど表現の難しい季節はないのではと思うようになった。おお秋よ、秋風よ、と書くだけで、秋そのものを全て表現していて、ほかの描写は不必要な感じなのである。紅葉だ、落葉だ、枯葉だと書いたところで、それはあたりまえの秋の現象であって秋の付属そのものにすぎないのである。芒よ、名月よと詠んだところで、おお秋よ、秋風よのもつ余韻を越えた表現にはなりにくい。秋という字は秋そのもの全てを表現していてほかの修飾語を許さないのではないか▼秋に関する詩や俳諧となるとそれほど多くは思い浮かばないが一番に浮かぶのはやはり「秋刀魚の歌」であろうか。図書館で調べてみたが、秋そのものを使ったうたはそれほど多くは見つからなかったのも事実▼秋来ぬと目にはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる(古今集)白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり(牧水)秋深き隣は何をする人ぞ(芭蕉)などが大方の人が知っている秋の字を使ったうたであろう。柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺(子規)桐一葉日当たりながら落ちにけり(虚子)などは秋の字を使わず秋の風情を表現したうたである。秋の字を使ったうたで先人たちがいかに苦労したかがうかがい知れておもしろい▼すべからく凡人は秋のつく美的感覚のゆたかな表現などに心を砕くことなく、秋そのものに融け込むことが秋を感覚するなによりの方法のようである。秋の字を使わず秋の風流を表現すると人それぞれの秋が現れて視界が開けてくるように思われる。
共同企画 後藤喜好
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