|
都心に出る用があって、そのあと銀座まで足をのばしてみる。もう銀座にもかすかな秋の気配があって、それに気がつけばちょっとした秋の風情なのに、まわりの賑やかさや人の動きと一緒になって歩いていると見落してしまいそうな小さな秋であった。阿吽の中で嗅ぎ分けられる小さな秋であった。▼阿吽とは吐く息と扱う息と辞書にはのっていて「――の呼吸」とある。阿吽の呼吸とはよく相撲の仕切りのときに使われる言葉である。相手の吐く息と吸う息を見計らって吸った息で立ち上がる。その微妙な呼吸が阿吽の呼吸。日本人は古来からこの阿吽の呼吸を大事にして生活をしてきたものである。事業においても男女の関係においても、この阿吽の呼吸は生かされていた。それがビジネスとかエロスとかの外来語で表現されるようになって一挙に葬り去られ、なにごともハウマッチと割り切られて惨たんとした状態となってしまった。男と女の関係など阿吽の呼吸があってはじめてしとねをともにするのであって、最初から指三本を出したらどういうことになるか、いまさら言を待たない。▼吐く息と吸う息とでかすかな秋を感じ取ってやると銀座の秋もやわらかくその人をくるんでくれるようであった。かつて戦場として働いたまちもつわものどもの夢のあとのようだ。両側に立ち並ぶビルの姿も茫漠として荒野となり目の前からいっとき消えてしまう。荒野を旅する男がひとりそこに佇んでいるような感覚である。そしてやがてはビアホールの店先に佇立している自分を発見する。品の良い初老の男性二人もにこやかに店に入っていく。かつて銀座が戦場であった頃、一気に飲み干した中ジョッキの味が忘れられない郷愁をそそるのである。生ビールがどうしてこうも旨いのか。このビアホールには粋粋に生きたビールが存在する。▼密教では阿を万物の根源とし、吽を一切が帰着する智徳とするという。あは口を開いて最初に出す音であり、うんは口を閉じて最後に出す音であるから阿吽(あ・うん)は森羅万象、人生万般にあまねく通じる哲理を包含しているといえよう。あと声を出しうんで終るまでその空間は計り知れないぐらい長いものであっても「あ・うん」と、かつての某総理のように瞬時に理解して判断する機微があるならば人間社会は円満に回転していくであろうと思われる。ビジネスの世界に情緒はいらない、厳然とした数字とイエスかノーがあれば十分と電算機を手にしたビジネスマンの姿が投影されがちだが、古い人間には受け入れ難い。▼中ジョッキ一杯とステーキで満足したかつてのつわものは、やがて、小唄「河太郎」のように、すすき かついだ河太郎 酒か団子かいいきげん で銀座のまちを歩き出す。車の音も人の声も遠い村囃子のように心にひびいて銀座で見つけた小さな秋も、やがてはもみじ色に染り帰路へといざなうのであった。
|