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小渕総理がたおれて前総理になった。政治の世界は一寸先は闇だと政治家は好んで言うが、そこには政治家は別格だと思うおごりがある。一寸先は闇であることは人間がもつ宿命みたいなもので世間一般にはよくあることである。こんどの政変、総理大臣の体に変化が起きたことで生じた人変である。人間の体は強靱でありながら脆い面も持ち合わせており六十歳過ぎたら何が起きるかわからない。「脳梗塞により集中治療室で人工呼吸器装置」という重篤な状況は、初期の段階でちょっとした「疲労」の認識でしかなかった。総理大臣においてもこの程度の認識と自己診断である。総理官邸からライトバンで病院に向うとき「血管障害による脳梗塞の疑い」があるというような明確な判断があったなら、もっと的確な応急処置が取られたのではなかったか。素人判断だが病気の原因に辿りつくまで時間がかかり過ぎたのだろう。どんな健康体であっても自分の持病と併発するかもしれない症状の種類ぐらい、記録しておくか家人に知らせておくことが患者となったときに果たす最低限の責任であろう。前日までの健康状態から一転して「集中治療室での人工呼吸器装置」となった前総理の政治的な人間的な落差は激し過ぎる。時の流れが一瞬にして空白の時を迎えたことになる。人の命運とはわからない。
桜が咲いている同じ頃、天井桟敷の住人も都内の病院にいた。放射線科への十年ぶりの入院である。その間「再診指導」で通院していたのだが発見が少しおくれた。以前と違ったところに症状が見つかった。主治医も患者も付き合いが長いから内視鏡で取った画像を眺めながら、その正体をしっかりと確認している。
「だいぶ大きくなっている」「こいつが元凶なんだ」というわけで眼科につづいてまた入院。レントゲン、CT、MRI、胃カメラ、気管支鏡と検査がつづき、診察券だけで子供のメンコみたいに溜った。それをナースに取り上げられたとき口惜しい思いをしたものだ。胃カメラでは腹腔あたりを膨らまされて、青蛙の腹を膨らました少年の頃を思い出されたし、気管支鏡では貴重な体験もさせられた。胃カメラで横にされているとき「誕生日の記念に毎年胃カメラ検査よ」と大声をあげて自慢気な老人が現れたが、これはまったくのイヤ味。胃カメラを前に怯えている者にとって球児・好児の漫才ではないが「ゲロゲロ、ゲロゲロ、この!」という心境になる。病院ではこういう手合いをよく見掛ける。検査は憂鬱なもので、ただひたすら時間のたつのを待つ以外にない。思考装置を放棄し無感覚な物体となるに限る。病院生活には季節感がないし生活感覚もなくなる。時間とどう対処するかだ。悠久の時は流れているが、その中で無に帰していくのか、有に戻るのか、それぞれの選択を迫られる時間が必ず来ることだけは確かである。
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