ほうやといえば、クリスタル食器で有名な保谷硝子(現HOYA)の発祥の地であったことは広く知られているところです。その場所がどこであったのか、なにか建物が残っているのかとなると地元の人々でも、「よくわからない」と答えます。
それも昭和35年に昭島市に、38年には入間市に大規模な工場を新設して主力を移し、保谷の工場跡地は41年に売却されたために、多くのものが記憶の中で風化されているようです。
昭和16年11月、保谷町下保谷801番地に東洋光学硝子製造所が創立され、光学ガラス溶解の火がともされたのがHOYAの前身といわれています。しかしガラスを溶かす作業ははじめての人も多く、試行錯誤の連続で、そんな中独自のガラス製造法を考え、溶器である熔解るつぼの改良に取り組み、第一号商品「保谷BK7」と呼ぶ光学ガラスを世に送り出したのが、保谷と名乗った最初でした。昭和18年3月のことです。その成功を機に軍の光学ガラスの供給機関ともなったのでした。そして終戦。会社は平和産業への大転換を模索しはじめることになります。昭和20年8月、社名を保谷陶器製造所と改め、苦肉の策としてるつぼを作る陶土がたくさんあったので、その陶土で七輪(コンロ)を作り池袋の闇市へ売りに行き、その代金で食糧を買ってきたといいます。しかし光学ガラスへの夢は捨てがたくクリスタルガラス食器の生産がはじめられたのもこの頃です。
22年ごろ戦後の物質不足がピークに達しました。当時、ガラスを溶解する燃料はすべて石炭でした。最寄りの駅に石炭がつくと社員が牛車でそれを工場に運びます。その牛車の牛は当時、工場周辺の農家の人々から名牛と言われたほど評判でした。ところが、ある日、その名牛が忽然と姿を消します。ただちに名牛の捜索がはじまりました。とうとう迷宮入りかと思われたころ、捜査の陣頭指揮にあたっていた従業員一族の胃袋の中に消えていたことがわかりました。従業員一同目を丸くして驚いたそうです。
22年4月には駐留軍からクリスタル食器の大量注文が入り、翌年6月からはシャンデリアの生産も開始されました。35年11月関連会社が合併して保谷硝子となり、59年10月にはHOYAとなり現在に至っています。
「株式の32・4%を海外投資家が占め、売上構成比が国内と海外で50対50に近づいている現在、保谷時代を知っている人は殆どおりません。お陰様で今年60周年です」(広報G中根氏)。 企業そのものが過去より未来へ、グローバル化へと邁進しているようです。
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