江戸時代に宿場付近の農民に課した労働課役も助郷と言いました。主要街道沿いの農民にかかるもので、もともと宿駅には人馬が常備されていましたが、交通の量が激しくなり人馬が不足がちになって各宿駅に助郷が定められました。
最初の頃は補充用で、田無村でも臨時的なものでしたが、参勤交代が確立されて交通量が増えると宿場の人馬が常に不足がちとなり恒常化されたと言われています。課役の範囲は次第に拡大され周辺十里(四十キロ)以上におよび、農民から労働力を奪い、加重な負担は農村を疲弊させる原因ともなりました。
宿場は、旅人の休泊や物資の購入などで利益も得られましたが、助郷村は負担のみで特別な利益は得られず、江戸後期になると出勤する人馬に村から補助金を出すことになって、村の財政に大きな負担を与えるようになりました。そのため助郷村に残る資料には、助郷免除願いや道中奉行に訴え出た文書の控えが発見されています。当時の助郷がいかに過重なものであったかは、来る日も来る日も農耕には従事できず、疲弊していく自村の現況を田無村の名主・下田半兵衛が道中奉行の手代に勤願書として提出していることでも分かります。その文書の控えには、「田無村はすでに定助郷でありながら、そのうえ加助郷として、甲州街道、高井戸宿の助郷まで仰せつけられることは大変困難で、難渋の状態である。また、当村は、東西南北七道の追分けであり、高井戸宿と同様に脇往還人馬継立てをうけたまわっているところである」と平等の立場を主張、高井戸宿への助郷は「幾重にも御免除なされおきたく」と申し上げています。
また、皇女和宮が江戸に降嫁されるときも、「和宮が東海道を避けて中山道を下向するので、増助郷として中山道板橋宿の手伝いとして欲しい」との一通の廻状が半兵衛に届けられています。増助郷は僅か数日間かもしれませんが、助郷村である田無村に田畑を耕すいとまもなく次から次へとかり出される村民の負担は、半兵衛をして「一村が滅亡する」と歎かせました。一揆の原因ともなった助郷は明治五年(一八七二)に廃止となりました。
(参考文献‥曽根原良仁著『新釈 公用分例略記抄』) |
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