田無銀行員

 明治の末から大正のはじめにかけての田無の古い街並みを地図でみると約240軒あまりの商店があったことがわかります(『田無のむかし話(3)』田無中央図書館所蔵)。そこには馬力屋、芸者屋、糸マユ仲買人などめずらしい職業のたたずまいが記録されています。
 その古い地図で目を引くのが「田無銀行」の存在。明治33年12月に現在の野口菓子店(田無町3‐11‐13)のところに、御門訴事件で有名な平井週作を頭取として創立されたと記録にありますが、資料を見ると創立は明治34年1月のようです。資本金は拾万円、株主百五十八名、一株五拾円との記録が残っています。そして、現存している野口菓子店の土蔵がその銀行の建物であったと史実にありました。しかし一度倒産してしまい、大正3年に西ヶ谷九十郎、浜野林太郎、鴨志田五兵衛など町の有力者によって、当時の井口棒屋(鍬の柄や天秤棒を作っていた)、田中足袋屋(注文で足袋や下着を縫っていた)を買収し、そこで業務が再開されたのです。その当時の模様を新聞号外は次のように伝えています。
 「田無銀行は昨日より営業を開始せるが附近の町村商農家は営業を待ちつつあった際なれば開始祝として預金せし金高総額数千円に達したり」(以下略)尚当日、披露の招待に応じた人は、近隣の各町村長ほか二百余名。「田無町近来に稀なる賑わいなりき」と当時の様子が記されています。
 この時の頭取は秋本喜七(武蔵境)、専務が鴨志田五兵衛(田無)、常務は高橋亀吉(関前)、その他行員1名が保谷から来ていたといいます。昭和7年7月、田無銀行は武陽銀行に買収され、昭和17年6月、日本昼夜銀行に合併、翌年18年4月には安田銀行に合併されました。安田銀行は現富士銀行の前身で、昭和23年10月に社名変更しました。昭和25年12月30日、富士銀行田無支店の店舗は埼玉銀行に譲渡されました。そして昭和49年、埼玉銀行の移転により旧田無市役所がその建物を借りて市民課の窓口としていました。これが、田無銀行の変遷と建物の歴史です。
 平成の初め、富士銀行に対し再誘致の働きかけがありましたが富士側は拒否、出張所はありますが田無周辺に支店がないのは、銀行がかつて撤退したことへのこだわりなのでしょうか。

田無銀行はここで生まれたと言われている
野口屋さんの土蔵。現在も残っている