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江戸時代に田無宿ができたときから、明治、大正、昭和、そして平成にわたり、変わりゆく田無のまちを見つめてきたのが、青梅街道沿いにある田無神社です。
田無神社の前身は、谷戸の宮山(現在の田無第二中学校付近)にあった尉殿大権現です。江戸時代初期に青梅街道がつくられ、田無宿の成立とともに、尉殿大権現が現在の場所へ移されました。寛文10年(1670)のことです。保谷の尉殿神社も同じ頃に尉殿大権現から分かれた神社で、田無神社とは夫婦の関係にあります。昔から、田無と保谷は切っても切れない縁にあったわけですね。
尉殿大権現は江戸時代の間、神仏習合の考えから西光寺(現総持寺)と一緒になっていましたが、明治元年(1868)、新政府の神仏分離令により西光寺と分けられ、明治5年(1872)に現在の「田無神社」となりました。このとき、上宿の八幡神社、北芝久保の稲荷神社、谷戸の熊野神社、上向台の八幡神社、下向台の八坂神社などが合わされ、大国主命をはじめとするすべての神様がここへ祀られることになりました。
現在の社殿がつくられたのは、江戸時代後期から明治時代にかけてです。当時、田無の名主だった下田半兵衛富宅は、江戸を代表する名工、嶋村俊表に本殿の再建を依頼しました。俊表は養老と福祉の精神に満ちた半兵衛の人柄に惚れ込み、この大仕事をわずか200両で請け負ったそうです。そして俊表の最高傑作といわれる現在の本殿が完成したのは、万延元年(1860)のことです。さらに俊表の彫刻スタイルを踏襲した拝殿も、明治時代初期に建築されました。
昨年の2月25日、田無神社の本殿、拝殿がともに東京都の有形文化財に指定されたのは記憶に新しいところです。今月で「田無市」は無くなりますが、田無神社は地元の鎮守さまとしていつまでもこの地に残ることでしょう。
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▲神社の奥にある野分初稲荷は、江戸初期の建築様式を残している。宮司の賀陽濟氏によれば、遷座した頃の本殿だという。
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