田無学校(明治8年頃)

 西東京市内には現在19の小学校があります。人口の増加に伴い、次第に数が増えていき、時代が移り変わるにしたがって教育方針や授業内容、子どもたちの着ている服、教科書、親しんできた遊びなどにも変化がみられます。今回は、旧田無市に初めて生まれた学校を紹介します。
 このまちに初めて学校ができたのは、今から128年前の明治6年(1873)のことです。それ以前は、手習所と呼ばれた寺子屋が村の中にいくつかあり、子どもたちに読み、書き、そろばんを教えていました。最初に手習所を開いたのは、当時医者であった賀陽済と言われていて、村の子どもたちだけでなく遠くは八王子、所沢、小手指、中野、また保谷などから歩いて集まって来たようです。当時の庶民の教育は、町人の社会的地位の向上に伴い進歩をとげ、特に江戸、大阪の町人の間に寺子屋や家塾が広がり、年々増加していきました。田無は宿場町であり、近郊の商
業・経済ならびに交通の中心地であったため、当然その必要性からも、読み書きそろばんを習う寺子屋が多くできたのです。
 そうした中、明治5年に学校制度が頒布され、全国的に小学校設立の気運が高まり、田無でも下田半兵衛らが中心となってはじめての学校「真誠学舎」が開校しました。場所は現在の総持寺の裏手の密蔵院を利用し、生徒は78名で、中に女子が11人含まれていました。この時、教員の一人として横浜から招かれたのが、刑部真琴で、開校時の明治6年〜33年まで、27年間にわたって在職し、後半の17年間は校長として今の教育の基礎を作ってきました。刑部真琴先生の胸像は現在も田無小学校にあります。
 明治8年には、学校名を「真誠学舎」から「田無学校」と改称し、生徒も徐々に増え、現在の田無警察署の西側に校舎を移転しました。この新校舎は近隣の町村にはない立派な建物でしたが、高等科の設置などによる生徒数の増加により、大正14年、現在の田無小学校の場所に再度移転しました。
 その後、昭和16年には田無国民学校、22年に田無小学校と校名は改称したものの29年、ベビーブームの最中に谷戸小学校ができるまでは、田無唯一の小学校として田無全域から生徒が通学していました。それゆえ田無小学校の役割は大きく、郷土文化の研究、教育センターとしても活用され、毎年のように研究会、講演会、図書館活動、映画会、同窓会、消防団の訓練など各種事業や活動が田無小学校を中心に利用されてきました。