昭和15年頃の雨乞い。左側が田無用水

 私たちが毎日使っている水、その水がどのような変遷をたどってきたか今回は、「田無用水」の歴史から紐解いていきましょう。
 皆さんもご存知の通り、江戸時代前期に村の主要な民家が谷戸から青梅街道筋に移っていますが、この移転は街道を作ること、また江戸城の改修のために必要とされたようです。ところが、水の便の悪い武蔵野台地の生活は困難をきわめ、青梅街道筋に移った田無村の人々は、天秤竿で谷戸から飲料水を運搬していたと言われています。その田無に用水が引かれたのは、玉川上水開通から43年後の元禄9年(1696)のこと。村の人々は飲料水を得る苦労からやっと開放されることとなります。この用水の他にも小さな支流がいくつかあり、おかげで畑が潤い、水田も開発されました。また、用水にかけた水車を使っての製粉業もはじまり、経済的な面でも大きな変化をとげます。
 一方で、水の確保を求めて、どこに用水路を引くかなど争うようになったと言われています。明治末頃から大正初期にかけて住民たちは水を求めて浅井戸を掘ります。この地帯は地盤が軟らかくそもそも普通に浅井戸を作ったのでは水脈にとどかず、地面をある程度螺旋状に掘り、さらに浅井戸を掘るといった苦労をしたようです。井戸のおかげで生活環境が良くなると、各地から人々が集まり、井戸の数も増え、渇水状態になることもしばしばありました。さらに大正時代から昭和時代にかけては、機械を使ってより深い井戸が掘れるようになります。しかし、この深い井戸の出現によって今までの浅井戸は水が出なくなり、またもや異常渇水の状態を引き起こすことになります。
 次第に用水の水枯れが多くなり、井戸も掘りすぎて水量が不足し始めます。この深刻な水不足に対して、町では町営水道計画を作り、5年計画の水道整備に取りかかり、昭和38年には西原町の都営住宅供給公社の所有地の一部に町営の深井戸第一号が完成。42年には北芝久保の新青梅街道沿いに配給塔を建設し、市内の深井戸から送られた水を貯水し、各家庭へ送りました。市営水道の普及率が上がると、市の井戸だけでは賄えなくなり、東京都の水を分水してもらうことになり、昭和49年には、東京都の水道局と給水体系も一元化して家庭への給水は安定することとなったのです。