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江戸時代初期に尾張藩の鷹場御殿造営にあたって整備されたと伝えられる前沢宿。この地の東側に、多摩地区に残る唯一の大名家墓地として知られる「米津寺(べいしんじ)」があります。
■殿様が住職に怒られた!?
米津寺は、万治2年(1659)に米津出羽守田盛(よねきつでわのかみたもり)を開基とする、米津家の菩提寺として創建されました。この創建の経緯について東久留米にはある言い伝えが残っています。
もともと米津家の墓地は東久留米市門前町にある浄牧院に建てられていました。ある時、墓参りに来た米津家の殿様が無精をして、カゴに乗ったまま山門に入ってきました。それを見た当時の浄牧院の住職が、烈火のごとく怒り、門外へ追い返したそうです。浄牧院は家康から直々の御朱印寺として格式もあり、また当時の住職がなかなかの傑僧だったのです。追い返された殿様は逆に激怒し、「それなら墓は他に移す」と自らの知行地である前沢宿に一族の菩提寺を作ったのが、米津寺だと言われています。
■大名・米津家
この米津家とは、もともと三河出身の徳川家の家臣で、初代・田政(たまさ)は、慶長9年(1604)から20年間、江戸町奉行を勤め、武蔵・上総・下総に五千石の領地を与えられました。二代目・田盛の時代には、さらに一万石を加増されて、一万五千石の大名となっています。後に米津家は久喜藩主・長瀞藩主となり、維新後は知事や貴族院議員も勤めています。
■国分寺に楼門を売却
明治22年、米津寺は火事により本堂を含む大部分が焼失してしまいます。当時は米津家がすでに宗旨変えをして米津寺との関係はなくなっていたため、再建資金を必要とした米津寺は、焼失を免れた楼門を国分寺市の国分寺に売却(国分寺市指定重要文化財)してしまいます。それでも再建資金には足りず、当時の住職は焼け残った養蚕小屋を本堂としてお寺を守りました。
時を経て昭和46〜50年にかけて、ようやく本堂を再建。さらに同年には初めて地域から檀家を受け入れます。米津寺はこの時まで檀家が米津家一戸という変わったお寺でした。本堂裏には田政、田盛の他に政矩、政崇、政容の六角塔墓石が当時のままの姿で並んでおり、平成8年には東京都の史跡指定を受けています。
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