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武蔵野新田の農民約500名による「御門訴事件」が起きたのは、明治3年(1870)1月10日のこと。その翌日には入牢となった51名を除いて、農民たちはそれぞれ各新田へと帰って来ました。これで終結かと思われた御門訴事件ですが、後日、品川県知事次席が負傷して倒れた凶器が鎌であったことが判明。その犯人探しのために、事件から2日後の13日から村役人たちが次々と捕えられ、厳しい追及が始まりました。
そして、19日には煽動者の筆頭とされた野中新田与右衛門組(現・花小金井など)の名主・高橋定右衛門も捕えられます。
■首謀者・高橋定右衛門
高橋家は代々定右衛門を襲名し、事件の定右衛門は5代目。名主の他に寺子屋の師匠として子どもたちの指導を行う他、田無村組合25ヶ村の総代を務めた経験もある、人望の厚い人物でした。
17日に定右衛門を首謀者とする高札が、内藤新宿に建てられると定右衛門は、分家の定五郎家を訪れ、同家の三本ケヤキの下で別れの水盃を交わしたそうです。前記のように19日に捕らえられた定右衛門には、厳しい追及が待ち受けていました。当時は自供のためなら拷問も当たり前の時代であり、追及を受けた人物は「両股の肉打裂け」「両腕背骨折れ」というほど悲惨なものでした。また取り調べでは品川県知事・古賀一平の伝言として「たとえ12ヶ新田へ発砲に及び元の原野に致すことも辞さない」と伝えられており、当時の県側の強硬な姿勢が伺えます。
2月13日、定右衛門は拷問の末に牢死してしまいました。大八車に乗せられた定右衛門の遺体は、まるで生者に対するように外套を着せ、帽子を被って家に送り届けられ、家人・親戚・村人達の「お帰りなさい」の挨拶で迎えられたそうです。
■御門訴事件と自由民権運動
結局、この拷問により指導者側では関前新田名主忠左衛門、上保谷新田の国蔵など4名、農民側が4名の計8名の犠牲者が出ました。
こうして幕を閉じた御門訴事件ですが、同年6月に改めて出された穀物を納める命令の際、県の役人が言い渡したのは、「特に貧しい者を除いて社倉積立の穀物を納める」というものでした。農民側の要求は通ったのです。
さらに明治10年代に起こった多摩の自由民権運動の時には、この事件に関わった人の中から多くの民権家が輩出されるなど、御門訴事件の経験は、その後の自由民権運動へと確実に引き継がれていったのでした。
参考資料『多摩のあゆみ 第26号』『小平に残る御門訴事件関係資料集』『小平市三〇年史』
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