▲明治27年に建てられた、御門訴事件記念碑(武蔵野市八幡町3‐8)

 今回、お話するのは明治の初めに起こった、御門訴事件です。成立直後の明治政府を震撼させた、御門訴事件とは一体どのようなものだったのでしょうか。今回より2回に分けて紹介したいと思います。

■御門訴事件とは?
 明治維新直後の明治2年(1869)、小平の一部の新田は品川県(当時、多摩地区の大部分は、品川県か韮山県に配置されていた)の管理下となりました。そして同年11月、「社倉制度」が県下の村々に布達されます。社倉制度とは飢饉に備えた貯穀制度のことです。こうした制度は江戸時代から各村落にありましたが、主に裕福な農民がひえなどの雑穀を納め、村の自治で管理されていました。しかし今回は、県が一括で管理し、供出物もひえではなく米となり、さらに県下一斉の基準で徴収されるものでした。当時は2年連続の大凶作であり、古田と違い、土地が悪く収穫量も少ない新田は明日食べる物も足りず、とても受け入れられる状態ではありませんでした。

 そこで大沼田新田・野中新田与右衛門組・野中新田善左衛門組・鈴木新田(現小平市)、関前新田(武蔵野市)、上保谷新田(西東京市)、関野新田・梶野新田(小金井市)、柳窪新田(東久留米市)、戸倉新田・内藤新田・野中新田六左衛門新田(国分寺市)の計12の武蔵野新田の村役人たちが関野新田の真蔵院に集まり、連名で出穀免除の嘆願書を作成し、県庁に提出します。しかし県はそれを受け入れず、様々な手を使って強行しようとします。年が明けて、明治3年の1月7日、県庁は12の新田の役人に一斉に出頭を命じ、説得を試みます。しかし、彼らは困窮を訴えるばかりで説得には応じませんでした。すると県は彼らを「宿預け」として軟禁してしまいます。

■激怒した農民、ついに門訴
 こうして新年早々に12の新田の役人が帰ってこない、という異常事態が発生します。これに激怒した農民たちは、鎌などの農具を手にし、総勢7〜800人が田無村に集合。1月9日の午後4時、日本橋にある県庁へ向かい歩き始めました。

 それを知った県側は、東京府に辿り着く橋を封鎖。農民は高田馬場から回り道をして日本橋を目指します。

 10日の夜中に県庁に到着した農民は門の外から嘆願を行います。しかし、県側は門を開いて2頭の騎馬を先頭に兵士や大砲で農民に襲いかかったのです。意外な事態に驚いた農民は四方八方に逃げますが、多数の負傷者を出し、さらに51名が逮捕されました。(つづく)

参考資料『小平市三〇年史』『多摩のあゆみ 第26号』


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