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大根と言えば、練馬大根が有名ですが、都内の市区町村で現在、最も生産量が多いのは実は東久留米です。その量は平成14年の調査では2、250tという膨大な量でした。そこで今回はあまり多くの人に知られていない東久留米の大根栽培の歴史にスポットを当ててみたいと思います。
■170年前にはすでに栽培
徳川幕府が編纂した『新編武蔵風土記稿』の落合村の記述には『大根等ヲ江戸ヘイタシテワツカニ生産ヲ資ク』とあります。同様の記述が小山村の項でも書かれていることから、本が作られた170年ほど前にはすでに東久留米地域で大根の生産が行われていたことが分かります。
江戸、明治を経て大正時代になると、東京の都市化が進み、その巨大な胃袋を補うために都心近郊で地質が合う練馬で大根を作付けることになりました。やがて練馬大根の名は全国に知れ渡りましたが、大量に作付けし、連作に次ぐ連作をした結果、いくら適地とはいえ、次第に土地が痩せ始めました。すると徐々にその中心地は隣接する東久留米周辺へと移動していきます。
■昭和初期にピークを迎える
そして大正末期〜昭和初期にかけて東久留米の大根作りは最盛期を迎えます。
その頃は収穫した大根を黒目川や落合川で洗うのが一般的でした。当時の川は今よりずっと清流で、洗い上がった大根は白く美しいものでした。この大根洗いを聞きつけた映画会社が、昭和25年に田中絹子主演の『武蔵野夫人』の中で、武蔵野の風景の一場面として多門寺のそばで大根洗いをする光景を撮影しに来たこともあるそうです。それほど当時の大根洗いは有名でした。大手農家ではピーク時になると毎日500本もの大根を洗っており、漬物は年に約6万樽ほど漬けていたという証言も残されています。練馬大根は、沢庵に適していることから農家の副業として漬物業者が10軒ほど誕生し、昭和10年には市内に漬物加工組合も設立されました。
こうして、一面大根畑になるほど栽培が盛んだった東久留米も、戦後になると次第に練馬と同じような状況になってしまい、収穫量が減り、やがて中心地は埼玉・群馬へと移っていきました。
その後、40年代からの都市化による畑の減少などもありましたが、農家による大根作りは地道に続けられ、今も東久留米では多くの大根が生産され続けています。
参考資料『東久留米市史』
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