▲小川寺にある『小山幸蔵の碑』。碑には近隣の村の有力者の名前も刻まれている。

 江戸時代末期、関東西北部一帯で百姓一揆が起こりました。それが近世最大の一揆と呼ばれる「武州一揆」です。この一揆は一体どのようなものだったのでしょうか? またこの鎮圧に関わったとされる小川の幸蔵とは、どんな人物なのでしょう。

■武州一揆の始まり
 慶応2年(1866)の6月、「世直し」の旗印を掲げ、名栗村(現・埼玉県入間郡)から後に武州一揆と呼ばれる百姓一揆が起こりました。彼らは、たちまち近隣の村々を取り込み、わずか7日間で200以上の村で打ち壊しを行い、結集した民衆は10数万人に達したと言われています。彼らは「米の値下げ」などを要求して豪農や役人の家を中心に打ち壊しを行いました。多摩北東部で最初に打ち壊しを行ったのは、久米川村・野口村(ともに現・東村山市)でした。続いて柳窪村(現・東久留米市柳窪)に移動し、質屋や名主など3軒の家の打ち壊しの最中に、田無の農兵を主力とする部隊と激戦になります。

 この農兵は、文久3年(1863)に多摩の治安悪化により江川太郎左衛門役所によって組織され、小川村(現・小平市小川町)をはじめ武蔵野の村々から1、000人に1人の割合で選出された農民の部隊でした。その数は武蔵・相模両国で15組合415人。新鋭のゲベール銃を貸し与えられ、田無や砂川などの調練場で訓練を行っていました。彼らが一揆勢を柳窪で撃退させる大きな役割を果たしたのです。

 その結果、小平は打ち壊しを全く受けませんでしたが、この鎮圧に意外な人物が協力したことが知られています。小平の「小川の幸蔵」です。

■語り継がれる小川の幸蔵

 小川の幸蔵は、本名を小山幸蔵といい、江戸時代の終わりに小平に登場した博打打ちでした。『小川家文書』によると、幸蔵は幼い頃から博打渡世を歩き、村内はもとより近隣の村まで帯刀して公然と往来し、無宿人の子分を50人も抱え、悪事を働いていたそうです。明治25年(1892)に発行された『侠客有名鏡』には、上州国定の忠治らと並んで紹介されるなど、その名前は広く知られていたようです。その幸蔵がどのような経緯で、武州一揆の鎮圧に加わったのかは不明ですが、地元では今も語り継がれる幸蔵は良くも悪くも、小平の生んだ有名人であることは間違いありません。小平市の小川寺には、現在も『小山幸蔵の碑』が残っています。

参考資料『小平市三〇年史』


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