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江戸時代の終わりから昭和の初めまで関東地方を中心に普及した小麦に「柳久保小麦」という品種がありました。この小麦の発祥の地は現在の東久留米市柳窪です。
■柳窪村の又右衛門が発見
柳久保小麦は寛永3年(1850)に柳窪村(現・柳窪)の又右衛門により発見されました。この又右衛門は非常に好奇心が強い人で、近隣でも珍しく畑にサトウキビを植えて黒砂糖を作るなど様々なことに挑戦した人だそうです。小麦の穂を発見した経緯についての記録は残っておらず、伊勢参りの道中で発見したなど様々な説がありますが、普通は見過ごしてしまうような珍しい小麦の一穂を、生来の好奇心の強さから持ち帰り誕生させたのが柳久保小麦でした。
この小麦の特徴は、通常の小麦より1・5倍ほど丈が長い点にあります。そのため茅葺屋根の屋根材として、不足していた茅の代わりに非常に重宝されました。またその他にも、腰の強いうどんの味が楽しめると評判だったそうです。
そんな柳久保小麦にも欠点がありました。それは収穫前に倒伏しやすく、収穫量が少ない点でした。その結果、昭和17年には太平洋戦争の影響による食糧増産政策によって、全面的に栽培が打ち切られ、完全消滅してしまいました。
■現代に蘇った柳久保小麦
こうして幻となってしまった柳久保小麦でしたが、昭和62年に復活します。それは柳窪5丁目に住む又右衛門の子孫・奥住和夫さんの手によってでした。
農業を営んでいた奥住さんが、かつて家の畑で作っていた柳久保小麦の発見者が自分の四代前にあたる先祖だと知ったのは、地元の郷土史研究会の人に教えてもらったことがきっかけでした。それまで全くその事実を知らなかった奥住さんは、ぜひ復活させようと、当時、都北多摩農業改良普及所に勤めていた井上惟嗣さんに相談。2人で1年半かけて探した結果、筑波の農林水産省農業生物資源研究所で低温貯蔵されていた種を発見します。その後、井上さんの尽力で10g・約300粒が払い下げられ、奥住さんの畑で委託栽培し、見事46年振りの復活に成功しました。
現代に蘇った柳久保小麦は、発見者の子孫・奥住さんの手によって今も栽培が続けられています。
※柳久保小麦は委託栽培のため種子を分けることは不可
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