▲昭和56年頃の下里本邑遺跡調査の市民見学会

■水源に集まった古代の人々
 近隣の遺跡の数は西東京市が14ヶ所、小平市が1ヶ所となっており、東久留米市は138ヶ所と数の多さが際立っています。その理由として挙げられるのが湧き水や落合川、黒目川など水源が豊富にあることです。実際、遺跡のほとんどが水源の周りに集中して見つかっていることから古代の人々が水を求めて移動した結果、この場所に落ち着いたと考えられます。
 市内の遺跡の特徴としては狩猟・採集を中心とした旧石器時代(約3万〜1万年前)と縄文時代(約1万〜2千数百年前)が大半を占め、その後の弥生時代以降の遺跡はほとんど確認されていないことが挙げられます。なぜ縄文人は消えてしまったのでしょうか? 考えられるのは、弥生時代は水稲農耕を主な生業としていたため、東久留米が水田を作るような低湿地には恵まれなかったことから、移動してしまったのではないかと推測されています。

■遺跡を公園として保存
 東久留米の遺跡発掘の歴史は昭和11年の「自由学園南遺跡」から始まり、その後も数多くの遺跡が発掘されました。しかし人類の貴重な財産であるはずの遺跡も、昭和30〜40年代に市内の人口が爆発的に増え、団地などの集合住宅が建てられる過程で、知らない間にその多くが壊されていきました。

▲小山台遺跡公園
 そんな流れに一石を投じたのが同45年の小山台遺跡の発掘調査でした。この調査は、久留米中学校生徒の自発的な意志によって行われ、和洋女子大学の寺村光晴氏の指導を受けながら夏休みを利用して実施されました。その結果、4棟の縄文時代中期の住居跡が発見され、生徒や市民から遺跡を保存して欲しいという声があがりました。市はそれに応えて、整備を行い、同57年に「小山台遺跡公園」として開放しました。これが転機となり、その後、遺跡を積極的に保存する方向に向かいます。同じく昭和53年に団地建設の際に調査された「下里本邑遺跡」は、旧石器時代から平安時代の長い間にわたる貴重な遺跡と判断され、遺跡公園として保存されました。

参考資料『東久留米のあけぼの』

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