▲青梅街道と鎌倉街道が交差する地点。ここから小平の開拓は始まった

 現在は約18万人弱の人が住む小平市ですが、江戸時代初期に作られた多摩郡の『正保年中改定図』という地図には、田無村と東久留米の7つの村はありますが、小平には村が一つも記載されていません。実は当時の小平は原っぱがあるだけで家が一軒もなかったのです。そんな小平の歴史は江戸時代からの開拓によって始まりました。

 江戸に幕府ができた慶長8年(1603)以来、青梅の石灰を江戸に運ぶ交通の要所として発展していった青梅街道ですが、田無から箱根ヶ崎までの約20
kmの街道沿いには水飲み場もなく、寒暑風雨の時には行き倒れて死んでしまう人も多かったと伝えられており、その中間地点である小平の開発は必要不可欠でした。しかし、当時は水源のない小平の開拓は難しいと考えられていました。

■開拓の祖・小川九郎兵衛
 それが変わるきっかけとなったのが2つの水路の完成でした。まずは承応3年(1654)に小平の西端からほぼ一直線に東へ走る玉川上水。続いて翌年の明暦元年(1655)には、同じく市の西端から分水して北側の市境を流れる野火止用水が完成します。

▲小平神明宮にある小川村開拓碑

 そしてついにその翌年、多摩郡岸村(現在の武蔵村山市大字岸)の有力者だった小川九郎兵衛が自費での小平地域開発を代官所に申し出ます。その願いは早速叶えられ、老中・松平信綱から西は玉川上水と野火止用水の分水口の地点から、東は田無村にいたる地域を開発するようにとの命令を受けます。明暦3年(1657)、言い伝えによると、現在の小川町2丁目の青梅街道と鎌倉街道の交差する「石塔が窪」と呼ばれた地域から開拓が始まりました。

 小川村と名付けられたこの地域には開拓を希望する農民が続々と集まり、検地帳の記録には開拓に着手して7年後に村高(村の石高)270石。その5年後には421石。そして入村から実に77年の歳月が過ぎた、享保18年(1733)には当初の倍以上となる672石まで進み、小川村の開拓は完了となりました。小平開拓の祖・小川九郎兵衛は入村から13年後の寛文9年(1669)、岸村の旧宅に帰り48歳の生涯を閉じました。その後、小平は野中新田、鈴木新田など7つの村落ができ、それが合併して小平村となり、町そして市へと発展していくこととなります。

参考資料『郷土こだいら』


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